キム・ヘスはベールに覆われた俳優だ。 そのベールは薄くて透明だが丈夫だ。 20年を越える歳月の間見守ったりのぞき見しながら,大衆はもう彼女の全てを見たと考えるかも知れない。
しかし人々が確認したのは幕の向こう側の姿だけだ。 長い歳月を経ても、こんなに過消費されても、相変らず神秘さを失わないことがスターの秘訣であり,同時に自分だけの空間を生きていくため、必死に持ちこたえるある人間の生存様式でもある。
'11番目のママ'のキム・ヘス.
そのベールを何と呼べば良いだろう? 自然人キム・ヘスは俳優キム・ヘスの欲望を知っている。 俳優キム・ヘスは自然人キム・ヘスの喪失感を理解する。 その二つは時にお互いを叱責したり時に慰めたりもする。 薄くて透明で丈夫な膜のその向こう側で。
キム・ヘスが持つ魅力のひとつに、奇妙な人工性があるがその理由を私はそのように理解する。 言わばその膜は彼女の時間の堆積そのものだ。
キム・ヘスの新作‘11番目のママ’(11月29日封切り)は、疲弊した人生の行き止まりで暴力的な男に連れられ彼の家に居候することになった1人の女性がその男の幼い息子と情を交わすことになる話.
11月22日夕方,キム・ヘスに会った。 記者試写会以後タイトな日程を消化するためとても疲れていたが,時間が経つほど彼女の話はますます深みを帯びてきた。
-すごく疲れていらっしゃるようですね。 今日だけでもう5件ものインタビューをしたんですって?
“はい,ちょっと疲れてますね。 目が大きくなって,二重まぶたが三重になりました。(笑い)”
-今日最も多く受けた質問はどんなものでしたか。
“今日は特別重複する質問が多くありませんでした。 でも今まで‘11番目のママ’に関連したインタビューで最も多く受けた質問は‘壊れることに対して恐れがなかったか’ ‘シナリオを読んでこの映画を選択したというのは事実か’ ‘母親役をすることに対して負担はなかったか’というようなことでした。
-その中で一番めの質問に対してはどのように答えましたか。
“私はまず壊れるという表現自体好きではないと話しました。 特定の配役を演技したからといって,自然人キム・ヘスが壊れるのではないでしょう。 単に演技をするだけなのに,壊れる理由もないです。 私が引き受けた人物をさらによく表わすために作った外見や容貌が映画の中でご覧になったようにそうしただけですから。 映画中で私の姿を見て壊れたという話を聞きますが、一種の称賛かと受け取ってます。(笑い)”
-完成した映画は11月21日の記者試写会で初めて見ましたか。
“はい,その日初めて見ました。”
-完成された映画を見て,撮影当時の感じと比較するとどのように違いましたか。
“初めに私がシナリオで読んだ内容と今の完成した映画が大きく違います。 いえ,完全に違うといえますね。 完成された映画を見ると,初めてこの作品をやろうと決心した時のことから撮影時に体験したことまで思い出され、涙が出てしまいました。 迂余曲折はどの映画にもあることですが,‘11番目のママ’はとりわけ波瀾万丈の作品だったんですよ。”
-試写会の時舞台挨拶をする姿を見ていて,普段とちょっと違うなと感じました。 他の試写会と違い,とりわけ緊張してるように見えました。 少し震えているのも感じられました。
“そのとおりですよ。 色んな理由で震えましたよ。 先ほど申し上げたようにこの映画は理由が多かった作品なので,記者試写会で見る方々はとても鋭利な見解を持たれる方々でしょう。 それが不安で緊張もしました。 その上この映画が扱う話は非常に胸が痛い内容でしょう。 映画の中の胸が痛い場面が次々と浮かんできて舞台の上なのに老人のように硬直したんですよ。(笑い)おかしなことにこの頃度々そうなんです。”
-そういう話を聞いたからか今でもちょっと寂しそうに見えますね。 この映画がキム・ヘス氏に特別な意味を残すとするならそれはなんですか。
“この映画を通じて,私は本当に良い俳優たちと演技したという気がします。 映画を撮ると、演技者として学ぶものも多いですが,人間的に大切な経験をする場合も多いです。 特にこの映画がそうでした。 映画の素材や内容が私たちの社会の悲しい現実に対峙しているので,私自身よく考える契機になりました。”
-事実‘11番目のママ’はこういう設定で予想される固定的パターンからほとんど逸脱しません。 なので俳優はさらに演技するのが難しいこともあると考えました。 話の段階を予測すると俳優の感情線まで描いてみることができるのに,毎場面で主人公の特定の演技が出てくることを予想し、腕組みしながら待つ観客をひきつけることは容易ではありませんから。
“確かにそんな面があります。 この映画自体がドラマチックな素材を扱うのでも,すごい反転があるのでも,視覚的刺激で勝負をするのでもないため、そういう負担や危険がありえます。 典型性に陥ったり新派に流れる素地もなくはありません。
事実私が魅惑されたこの映画の初めのシナリオは非常に荒々しく激烈でした。 あまりにも衝撃的なのにあえて涙さえ流すことができないほどの強烈さがそのシナリオにはありましたね。 それと比べると,今のこの映画はもうちょっとたくさんの観客が気楽に暖かく見られるよう完成されたということができるでしょう。 たくさん優しく(マイルドに)なったんですよ。”
-‘11番目のママ’でキム・ヘス氏は植物のように演技するという感じを受けました。 引き受けられた(名前さえない)役は患者でもあるが,何より人生に疲れるだけ疲れた女だと言えるはずですが,劇中キム・ヘス氏の姿で濃厚に染み出たのはまさにそういう人生の疲労のようなものでした。
“今まで自分の生き様でいくら奈落があったといっても,その女に比較してそれを奈落といえるでしょうか? 私にはそんな方々の現実の奈落を想像するのも難しいです。 だから役を準備しているとき,色々悩みましたよ。 この映画は実話に基づいた話ですが,‘実際モデルになった方々に会って話してみようか?’ ‘関連テーマを扱ったドキュメンタリーを見なければならないだろうか?’などなど・・考えられることはすべて。
そして実際に試みもしたけれど,結局そういう方たちの苦痛の深さを再現することはできなかったんですよ。 せいぜいまねをして終わったり真似さえ失敗してしまいそうでした。 それで怖くなりました。
結局私が選んだ方法は、自分自身の感情を私が経験した奈落以下に深く引き下げ,最大限私の情緒自体を疲弊させるということでした。
撮影期間ずっとその状態を維持しようと努力しました。 この映画は意識的に熱演するよりそうしなければと判断したからです。 今考えてみても私にはそれが最善の選択だったようです。”
-この映画で演技するため自らを疲弊するようにしむけたので,なんですかお母さんも止めろと止められたんですって?
“はい,母が二度とそんな役しないでくれと・・。(笑)娘の職業が俳優だからいつもは‘役に没頭するんだな’と考えてくださるのに,今回は本当に心配されましたね。 事実私は撮影期間中も日常はそのまま普段の自分自身でいるんですね。 しかしこの映画を撮ったときは日常も完全に変わるのを初めて見て非常に気を遣ったんでしょうね。 ちょうどその時たまたまインターネット コメントのせいである芸能人が自殺したという事件があって,社会的に沸きかえった状況だったんですよ。”
-‘11番目のママ’は家族映画のように見られるが,私はこの作品で劇中「女」の子供に対する心が母性愛とは考えられなかったです。 むしろ「女」と子供はお互いに対する憐憫をやりとりする仲とだと思いました。 憐憫こそこの映画の核心情緒そのものだということです。 男が酒に酔って眠った後カラオケで子供と「女」が初めて心を開いて話をした時もこの世で誰が一番哀れなのかを話していたでしょう?
“そのとおりです。 私はこの映画でただの一度も母性を意識して演技しませんでした。 ただ題名が‘11番目のママ’になっているため、この映画がママの話だということ、それだけでしょう。 私は「女」が子供を見る時,鏡を見るような気持ちだ考えました。 だから子供に対する憐憫はすなわち自分への憐憫でもあるといえるでしょう。 ‘欠乏した子供と欠乏した「女」が新しい家庭を作る’,そんなのは広報文句(コピー)のようなものです。
私がこの映画で最も好きな場面がまさにそのカラオケ シーンです。 8000ウォンの肉バイキングを食べ終えた後酒に酔って,パパ寝ている時,初めて身の上話をして子供と初めて話らしい話をするじゃないですか。 映画の核心を含んでいるとても重要なシーンだ思います。”
-劇中退屈した女が部屋のすみで雑誌を見ながら,脚を貧乏ゆすりする姿が印象的でした。(笑い)今年はじめ封切った‘良くない家’でもキム・ヘス氏がこれに似た演技をしたことがあります。 まず,実際に退屈したとき貧乏ゆすりをしますか?聞きたいんですけど。(笑)
“全然やりません。(笑)”
-貧乏ゆすりする演技は監督からの指示ではなかったと思われました。 キム・ヘス氏が退屈した女を考える時楽しんで思い出させるイメージだという感じだったんですよ。
“はい,私が考えた演技でした。 私が中学のときモデルをしていて専属だったヘテ製菓の広告写真を撮りに忠武路(チュンムロ)のスタジオに行ったんですね。 それでそのスタジオでは私の撮影が終わった後、ビキニ カレンダーガールの写真を撮ることになっていたんです。 すごくだらしない服装の女性が椅子に座って順番を待っていて,ガムを音を出してクチャクチャかみながら,足をガクガク震わせる姿がいやだなと思うと同時にとても印象的でした。 私、それを見てからガムもあまり噛まなくなりました。(笑)もちろん貧乏ゆすりもしないですよ。 典型的だけれど,非常に日常的な姿だから演技的に持たなければと考えた中の一つがそういった足を震わせる姿でした。 でも‘良くない家’を見たらちょっとやりすぎでお尻までかいていましたね。(笑)日常的演技をすることは,やはり私は(不得手で)ぎこちなく見えるなと感じました。”
-この映画でのキャラクターはキム・ヘス氏の普段のイメージとは180度違います。 健康美はおろか弱々しく病んだ女で,視線もあわせず,話も静かに吐きだすような感じでしょう。 一言でいえば自身の人生の統制権を失って他人にコントロールされる女だと言えるでしょう。 ではキム・ヘス氏はやはり活力があって、自信のあふれる素晴らしい普段のイメージそのままの人だなんでしょうか?
“ご存知の通り私は中学のときから芸能界で生きてきました。ですからある部分は年齢と比べて,とても早く発達して,対外的にも目立つことになった反面,自然人キム・ヘスは非常に不安定で亀裂が生じるという側面があります。 私の容貌自体が明るくて肯定的で商業的にできてるじゃないですか?(笑)一時はそういうことがとても不満でした。 俳優がとても暗くてドラマチックすぎても制限を受けるだろうが,私は容貌があまりにも明るくてシンプルだからです。 少なくとも私ができることよりは人間的にもう少し複雑な人なのに(笑)
同時に私のイメージと実際の私との間に不均衡ができたこともありました。
私は対外的には感情的に極端でありません。 平静を比較的よく維持するほうだと思います。 しかし本当の私を考えて見ると,極端と極端の間、中間が非常にたくさん空いています。 時には私には両極端だけが存在するという感覚すらあります。 それが俳優にとっても障害やハンディキャップになりうると感じるほどです。 私の本質と関連した,私だけが知っている私がいるんです。”
-行事で司会をしたりファンにサインをしてあげたりする時も自分がある程度演技してるような気がしませんか?
“そういわれるとまあ,誰でも演技してるんでしょうね。 この頃私はどんな状況でも気楽でいようと思ってます。 その場に合わせて自らをまかせるといいましょうか。 万一その場が不快ならば,そのような自分自身を押さえてまで行こうとはしなかったです。 以前はそうすべき(行くべき)だと信じなかったということです。”
-私はキム・ヘス氏の魅力に一種の奇妙な人工性みたいなものがあると考えます。 私は良い演技が常に没頭する演技を意味するのではないとみるんですが,キム・ヘス氏の演技は最も優れた瞬間さえ完全に没頭するスタイルの演技ではないようですね。 はなはだしきはある場面で、まるで二人のキム・ヘス氏が画面に共存しているようだという感じを受ける時があります。 その場面で見えるキム・ヘスと,そういう自らの姿をそばで眺める,画面に見えないキム・ヘスが立体的に共存するような感じといいましょうか?
“私は一時非現実的な感覚に捕われたことがあります。 それも自分の生き様の不均衡中一つなんですが,演技をする時や話をする時,また他の私があちら隅の上から俯瞰して私を見下ろしているんです。 しばらくそうでしたね・・・本当に変な経験でした。”
-私はキム・ヘス氏特有の人工性はとても幼いころから演技者として活動してきたという事実と関係があるのではないかと推測します。 今、遺体離脱のような経験を話されましたが,そういった経験もやはりこの事実と関係しているのではないでしょうか?
“そんな面があるみたいですね。 情緒的な側面で私が一般的な子供たちとは異なる成長の仕方だったのかもしれないと私も考えます。 私は事実早くから社会生活をして、スポットライトを受け,避けたい瞬間にも避けられなかった状況が反復されましたから。 私が常時他人に露出しながら生活するため,他の人々同様、そういう風に(客観的に)自分自身を見つめることになったのかも知れない、ということです。”
-そのような過去に対する補償心理のようなものもおありだと思います。
“今私は自分が求めるものに対して強烈に執着する方です。 一度はまるとやめられないし,よく確かめると自らやめたくないような気がします。 自由で安らかであるべき10代の時に持続的で徹底した保護を受けてきたから、それを拘束と感じたようです。 私の意志が黙殺される時期がとても長かったことに対する反作用で、自由に対する熱望は今は必要以上に大きくなっていますね。”
-キム・ヘス氏とインタビューをすると、非常に冷静だという印象を受けます。 6年前にインタビューをした時もそうでしたが,自身の演技力や位置のようなものに対して過度に冷たく話すという感じでです。 聞く人によっては、それを謙虚だと言うかもしれませんが,私が見るに「自らに冷静だ」というのが最もぴったりくる表現のようですね。
“はい,私もその表現のほうが良いですね。 私は必要以上に謙虚なのは苦手なんです。 私が自らに対して冷静に話すと指摘した人はチョン・ジウ監督とイ記者このお二人ですが,実際私は謙虚だというより自らに冷静だという表現がさらに近いようです。 当然私にはそうするべき必要がありますから。そうしてこそ持ちこたえるものがありますね。 それで、はじめて私が前に進むことができるんです。 わざとそうするのではありません。 私も自らをそのまま放っておきたい時があるのに,それがうまくできないようです。”
-私の考えでは,自らに対して冷静に話す人は一般的に自尊心と自意識が強い場合が多いようです。 自身を冷徹に見られる人でもあるが,他人からそういう話を聞くのが嫌で,自分から先にその話をしてしまう人である・・ということでしょう。
“お言葉を聞くと,そうなのかなと思ったりもしますね。 うん、そうです。”
-ところで,さっきおっしゃった‘そうしてこそ持ちこたえるものがある’という件、正確にはどういう意味でしょうか。 もう少し説明できますか。
“私に最も重要な問題は本質的な私と、大衆に見られる芸能人、あるいは俳優としての私の間の乖離感を勝ち抜くことです。 それでこそ私を守ることができますね。 そうしなければ私は耐えられませんね。”
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